2023年ディベート甲子園参戦記(仮)
- dkoshienalumni
- 4月12日
- 読了時間: 10分
今回は、2023年のディベート甲子園でチームとして準優勝に輝いた牧田遼太朗さんに執筆を依頼しました。
ディベートに対する思いから、「良い」議論を作る方法に至るまで、充実した内容になっています。ぜひ最後までご覧ください!
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こんにちは、この度は僭越ながら、OBOG会様のブログに寄稿させていただくこととなりました、現在無職(海外大学に進学予定)の牧田と申します。
これまでのディベート経験としては、中高5年間ディベート甲子園(&DCS2020)に参加した他、JDAにも出場する機会を2回ほどいただきました。
(なお、読者として過去の自分を想定して執筆したため、ところどころに過激な言辞を用いたこと、ご容赦いただけますと幸いです)
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さて、高校2年生の時分、最後のディベート甲子園シーズン(2023年・電子監視論題)を迎えるにあたって、僕は三つの目標を据えました。
一つ、ディベートから足を洗うこと
二つ、パートナーにディベートを楽しんでもらうこと
三つ、「良い議論」を作ること
今回の記事では、僕がいかにして上記目標の達成を試みたか、ご紹介できたらと思います。
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①ディベートから足を洗う
読者の皆さんの多くは、このような目標設定に首を傾げられていることと思います。実際、僕自身、プレパに全てを捧げてきた4年間の末、そのような結論に至るとは夢にも思いませんでした。
しかし、高2当時の僕にとっては、ディベートから撤退すること、それこそが喫緊の課題でした。
それはなぜかと言えば、端的に、ディベートでは自らの知的好奇心を十分に充足できないと考えたためです。
僕は昔からリサーチが好きで、新しい論題に取り組む度に未知の学問領域に出会い、自分の認識を改変していく過程を楽しみながら、ディベートに取り組んできました。
中学生の頃から、試合での勝敗よりもいかに面白い議論が作れるかということに関心があり、リサーチの内容も大半は論題と直接関係しないものでした。
例えば、2021年の部活論題では給特法など教育行政の制度的基盤に興味を抱いたり、2022年の石炭火力論題では、未来世代の権利保障を正当化するためにハンス・ヨナスをひたすら読んだり、といった具合です。
そうして、政治学、経済学、法学、哲学、社会学など人文社会科学の面白さに触れる中で、段々とディベートに関係なく学術書を読むことが増えていきました。
ディベートと同時採択できるのではないかと思われるかもしれませんが、実際問題として、学術書をきちんと読んで論理を再構成していくということは、(少なくとも僕にとっては)断片的なエビデンスを収集するプレパとは全く異なる試みで、かなり競合性が大きいというのが正直なところです。
競技的な要求を満たす範囲で作成できる議論には大きな限界がありますし、海外論文を引用できないディベート甲子園のエビデンスプールでは、そのことが、なおのこと顕著なように感じられました。
感覚としては、僕はあらゆる手段を用いて自分の仮説を検証することに楽しさを見いだしていて、それは使用可能なエビデンスを踏まえて議論を構築するというプレパの様式に逆行するわけです(演繹/帰納という推論形式の対立なのかもしれません)。
加えて、自身の将来を考えたときに、ディベートにこれ以上の時間投下をすることでどのような限界効用が発生するのかも分からなくなりました。
漫然とプレパして大会でそこそこの成果を収めることに満足して良いのか、新しい物事に挑戦して成長しなければ、という思いもありました。
そのような思惑の下、関東予選までの期間、プレパにできるだけ時間を割かないことを目指してシーズンを迎えました。
論題発表開始1週間で主要文献(甘利, 河出, 法務総研...etc)を網羅してからというもの、関東予選終了までリサーチはほとんどせず、もっぱらフーコーを読むことに血道を上げていました(とはいうものの、立論は週一で作成していたのですが...)。
結果、東海春大会では1勝2敗、関東予選でも敗北を重ね、壊滅的な戦績を叩き出しました。
このように、ディベートライフとしては散々だったわけですが、他方では、雑多な領域で議論を構想することが楽しくて仕方がなく、思うままに読んだり書いたりしていました。
一例を挙げると、一院制論題の知識を活かして、「ねじれ国会では与野党間の妥協が行われやすくなることで、実際には増税・社会保障削減など不人気政策が通りやすくなる」という仮説を立て、研究(もどき)に励みました。
ただ、それらを通じて、結局のところ、何をするにも僕の知的活動の基盤として、ディベートが根付いているということに気付かされました。
なんだか、不良少年が更生したみたいで嫌なのですが、やはり、僕はディベート(もとい第2の故郷・有栖川図書館)から離れられないのかもしれません。
②パートナーに楽しんでもらう
これはただの惚気なのですが、僕のパートナーは、曰く「ディベートを楽しいと思ったことはない」にも関わらず、僕一人だと大会に出場できないことを案じて結局5年間組んでくれる、マジで最高な奴で、なんとか部活を引退する前に2人で良いシーズンを過ごしたいという思いがありました。
楽しんでもらう、というのは傲慢な物言いで、僕にできることは実のところ、「自分の楽しさを共有する」「楽しくない要素を減らす」くらいのことでした。
ただ、プレパ量を減らしたことの思いがけない恩恵として、パートナーと議論を吟味する時間が増えたため、リサーチの方向性や環境の動向など、雑多に話すようになりました。
基本的な流れとしては、まずパートナーに原稿を読んでもらって、(大抵彼は一瞥するや「微妙」と言うのですが...w)修正を要する点について相互の認識を擦り合わせるというだけのことですが、繰り返すうちに、試合でも手応えを得るようになっていきました。
思うに、ディベートという競技を楽しむために重要なことは、たくさんリサーチすることでも、上手くスピーチできることでもなく、どれだけ考えて、伝えることに時間を費やすか、その一点に尽きるのではないでしょうか。
そして、そのような営みは、当然競技そのものに制約されず、学校や日常生活の至るところでなされうるものでしょう。
僕のパートナーはシーズンを通じてほとんどリサーチしませんでしたが、議論に関する彼の研ぎ澄まされた直感には、幾度となく助けられ、その度に、彼と組めて良かったと痛感したものです。
もちろん、これは彼に特異な才能であることは間違いないのですが、重要なことは、良い議論というものは、誰にでも開かれたものであるということです。
我々それぞれの経験から、固有の視点、言葉、価値が生み出され、それがコミュニケーションを介して翻訳されて、その時点で支配的な認識が言語として定着するというふうに考えるならば、認識を再定義する「議論の実験室」としてのディベートではなおのこと、個々人に固有の知覚こそが、議論の本質的な「良さ」を生み出すものなのではないでしょうか。
ですから、勝利至上主義の見地からも、(必ずしもプレパしない)パートナーの意見を十分に尊重して、チームメンバー全員が「面白い」と思える議論を目指すことは合理的な戦略であるといえるかもしれません。
もしくは、単に、パートナーが理解できない議論をジャッジが初見で聞いて評価する蓋然性が低い、ということかもしれません(経験的に証明されています...)。
僕のパートナーがどれだけシーズンを楽しんでくれたかはわからないけれど、決勝前日の夜、二人で過ごした時間は(トピカリティ対策とかしてただけな気もするのですが)、素晴らしいものでした。
③良い議論を作る
電子監視論題を通じて僕は、「刑罰とはなにか」「刑事政策はどのように正当化されうるか」「刑事司法制度の効用はいかにして最大化されるか」というような問いに答えることを目指していました。
先に述べたように、論題から離れすぎると競技性の要請を満たせないわけですが、とはいえ、自分なりに(論題を超えて)良い問いを立てられると、対戦相手とは異なる切り口で議論を組めるという戦略的な利点があります。
そして、問いを立てる上で僕が重要だと考えるのは、肯定側/否定側、両サイドに通底する問題であるということです。
これはなぜかと言えば、本来的には、論題導入の帰結として生じる事象はサイドによらず同一であるはずだからです。
故に、ディベーターが議論をもってしてコントロールできるのは、事象の「発生」ではなく、「評価」に他なりません。
非常に強固な倫理規範に制約されない限り、多くの議論には必ずターンアラウンドを適用する余地が存在しますし、そのことは、価値判断でいともたやすくひっくり返る不安定な観念としてのメリット/デメリットの姿を照射します。
だからこそ、僕は、任意の論題においてもっとも検討されるべきなのは、その避け難いトレードオフを裁定する基準を設定することであると主張したいと思います。
この主張は、更に、トレードオフが明らかでない議論は「投票理由」を構成しないという言明を含意します。論題が現実世界に変化を及ぼす以上、メリット/デメリットの発生は不可避であるし、もし両サイドが合意可能な争点であれば、排他的な投票理由としては機能し得ないからです(例えば、affが「貧困を解消すべき」というような言説を投票理由として提示したとき、negは全く同じ主張を展開することで論題肯定を妨げることができるでしょう)。
すなわち、肯定側も否定側も同じ事象に対して、その評価基準をめぐって争うというのが、ディベートにおけるもっとも核心的な要素ではないでしょうか(なお、私見では、ここで問題になるのは価値規範それ自体ではなく、当該価値判断を基礎付ける「現状」という世界の特殊性に他なりません)。
そうなると、両サイドに共通する判断の枠組みというのは、論題よりもメタ的な次元において提示されなければならないことになります。
論題から独立した現状分析としての「観察」、相手サイドに対する優位性を証明するための「重要性/深刻性」、その価値規範を正当化する「判断基準」のような議論はいずれもこのような観点の下に位置付けることができるでしょう。
冒頭の問いに戻ると、(大まかに)その制約事由としての責任主義から、刑罰の本質は、自己決定に対する代償として個人に責任を負わせることで、自由意志を前提とする社会秩序を保護することに求められるのではないかと考えました。
そのような認識を背景として、責任に対応する刑罰を課すことを刑事政策の目的と捉え、否定側では、電子監視によるスティグマは国家がその影響を制御できないが故に認められないと論じる一方で、肯定側では現状の刑事司法制度がそもそも出所後の社会復帰を不可能たらしめており刑罰の副次的弊害を解消するために電子監視という監督措置が必要であるというように主張しました。
論じたい事柄は限りなく、上記の議論にも完全に満足しているわけではないのですが(本来はフーコーとか引用してもっとはちゃめちゃにしたかった)良い議論を目指してシーズンを完走できたことが、とても嬉しかったです。
これからも、一切妥協せずに、まず自分が納得できて、さらには他者を説得できるような良い議論を目指して、ディベートでもディベートの外でもプレパに励みたいと思っています。
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最後に、読者の皆様の中には、これからどのようにディベートに関わるか迷っている方もいらっしゃるかもしれません。
今回の記事を通じて僕が伝えたいこと、それはディベートへの取り組みは全然中途半端で良いのだということです。最初に書いたように、僕は3つの目標を掲げてシーズンを過ごしましたが、ディベートにはそれだけたくさんの楽しみ方があって、新しい面白さを発見するのに遅すぎるということはありません(僕のような若輩者が申し上げるのは大変恐縮ですが...)。
大会というのは結局は他人が作った箱に過ぎず、その中で固有の意味を見出すのは常に我々自身です。
ですから、重要なことはなにかと言えば、大会成績などではなく(もちろんそこに意味を見出す人もいるでしょうが)、自分の意味に対して真摯であることだと、僕は思います。
そして、自己の意味を問い直し、他者に伝える契機として、ディベートはとても有用なものだと僕は信じています。
何億人という人々がそれぞれの意味を形成し、無数の議論が輝くこの世界を、存分に楽しみましょう!
大変な長文となってしまいましたが、ここまで読了していただきありがとうございました。皆様の人生に幸あらんことを心から願っています。
それでは、いずれまた、対戦相手としてお会いしましょう!
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